旧 日本領事館でせっせと写真を撮るワタシを見たMASAKOさんが「これから行く2号館にはもっとたくさんの写真がありますよ!」と教えてくれた。
それが、旧 東洋拓殖銀行を利用した『木浦近代歴史館2号館』!

旧 東洋拓殖銀行
無料駐車場が建物の左側にある。
日本の統治が終わった時、多くの建物は壊されたが、この建物はあまりにも価値があるので残されたそうだ。
1Fは、当時と今の木浦を写真で見比べることができるようになっているので、街の移り変わりを理解しやすい!
2Fには第二次世界大戦や朝鮮戦争など戦争被害の写真が集められている。
日本では残酷すぎるという理由で原爆資料館から撤去されるようなひどいケロイドができた人の写真もあった!
暴行されて殺された少女の写真など目を覆いたくなるような写真が並んでいる・・
しかし、これらは戦争の事実であり全ての人が知らなければならないことだと思う!
戦争でひどい目に遭うのは立場の弱い子どもや女性、お年寄りなのだ。

日本統治時代の木浦駅と昭和橋
1913年5月、木浦と夢灘(モンタン)間に鉄道が開通。
1914年、湖南線が全線開通。
1932年、駅前に昭和橋が架けられた。
上は説明文に書いてあった内容。

最近の木浦駅
何年前の写真か分からないけど、今もだいたいこんな感じ。

貯水池の番人
貯水池の塀の上には何人も見張り役がいたそうだ。
水が盗まれるのを防ぐとともに水に毒を入れられるのを防ぐためらしいけど、1日じゅうボ~っと立っているのは退屈だろうと思う。

はげ山となった儒達山(ユダルサン)
朝鮮戦争の時、激しい戦いと燃料として木を切り倒したため、国中の山がはげ山になったという話は知っていたが、さっき見たばかりの儒達山もこんな哀れな姿だったようだ。

ほぼ同じ角度を見た今の風景
大きな岩の横にある展望台の向こうに見える島が、上の写真で3つ並んでいる島のうちの2つ。

日本統治時代の街並み
当時の木浦は日本人が住む高級住宅街と地元の人が暮らす地区がはっきり分かれていたそうだ。
ここは、現在の儒達洞(ユダルドン)で、当時は大義洞1丁目と呼ばれていたところ。
右側の2軒目は『江戸っ子』という名前の店!

現在の儒達洞
当時の写真と比べると、ちょっと寂れた感じ・・

田内千鶴子と孤児たち
韓服を着て木の幹を握っているのが千鶴子さん。
並んでいる子どもたちは、みんな元気にしているんだろうか?
田内千鶴子が3,000人もの孤児を育てた共生園については、こちらの記事を見てほしい。
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