共生園

 

木浦駅でMARIKOさんに紹介してもらった解説士のMASAKOさんと待ち合わせていたが、改札を出てもそれらしき人がいない。

MARIKOさんに連絡をしたら,、ちょっと行き違いがあったようだ。

少し待っていたら、MASAKOさんが可愛いKIA(韓国の自動車会社のひとつ)で迎えに来てくれた☆

初対面から、ちょっと緊張した出会いだったがMASAKOさんは木浦のことなら隅々まで知っている人で、ワタシの希望に沿って予定を考えてくれたようだった。

 

観光客向けの旅行を提案するための取材には関係ない場所かもしれないが、ぜひ行ってみたいと思ったのが『共生園』。

出発ギリギリまで迷っていたワタシが最後になって言い出したことなのにMASAKOさんは、ちゃんとアポを入れてくれたのだ☆

「今日は高知県から野球チームが来るので早く行かないとバッティングしてしまう!」と言って、大急ぎで共生園へ向かった。

 

 

【共生園について】

木浦を代表する観光地でもある儒達山(ユダルサン)のふもとにある共生園は、日本統治下時代に韓国人キリスト教伝道師・尹致浩(ユン・チホ)が7人の孤児と生活を共にしたのが始まり。

朝鮮総督府官吏の父をもつ田内千鶴子が尹致浩の活動に共鳴し、共生園で奉仕活動を始めた。

やがて2人は夫婦になり、大勢の孤児らの父と母として自分たちの子どもとともに育てた。

ところが、食料を調達に行った尹致浩が行方不明になり、残された千鶴子は夫の遺志を継いで56歳で生涯を閉じるまで3,000人もの孤児たちを育てあげたという。

 

この話を知って、どうしても共生園を見てみたい!と思った。 

 

 

 

共生園

ワタシたちが到着した時、すでに大型バスが停まっているのが見えた。

「あぁ、もう野球チームが来ているから、残念だけど記念館だけ見て帰りましょう!」とMASAKOさんが言って、記念館へ向かおうとした時、バスが停まっている方から女性が歩いて来た!

この人が現在の共生園の園長であり尹致浩と田内千鶴子の孫にあたる鄭 愛羅(チョン・エラ)さんだった。

 

鄭 愛羅さんは高知県からの客を迎えて忙しいのに、わざわざワタシのために時間を割いて来てくれたのだ☆

記念館まで一緒に歩きながら共生園について話をし、記念館の中を簡単に説明してから、また戻って行った。

自然で偉ぶったところなど微塵もなく優しいほほ笑みを浮かべて話す姿は、確固とした信念に基づいて生きる人ならでは、だと思った。

 

ワタシたちは共生園の歴史を紹介する映像を見せてもらいながら、スタッフに飲み物をもらった。

暗い部屋だったので何が入っているのか分からないまま飲んだが、濃い梅のジュースでとても美味しかった!

そして梅は田内千鶴子と大きな関わりがあるものだと映像を見て分かった。

 

 

 

ピアノを弾く田内千鶴子と孤児たち

記念館の中にあった写真とピアノ。

音楽教師だった田内千鶴子が愛用したピアノだろうか?

映像を見終わる頃やって来た高知県野球チームの選手が『猫ふんじゃった』を弾いていた!

 

 

 

尹致浩尹鶴子記念館

田内千鶴子は、『鶴子(ハクチャ)』と韓国風の名前を名乗ったようだ。

映像を見たら第二次世界大戦後、日本人への風当たりが強くなったため、一度は生まれ故郷の高知県へ戻ったそうだが、共生園の子どもたちのことが心配でたまらず、引き留める母親を振り切って木浦へ戻ったという。

 

年老いた母親を1人置いて韓国へ戻るのは心が張り裂ける想いだったに違いない。

しかし、親不孝をしてでも自分を必要とする孤児たちの元へ帰ることを決めた千鶴子は本当に強い人だと思う!

 

 

 

孤児たちが暮らす建物

園内には昔の建物も残っているが現在、孤児たちが暮らしているのはここ。

150人くらいの子どもたちが、ここから学校へ通っているそうだ。

 

 

 

『お母さんの塔』

田内千鶴子を称えるために造られた『お母さんの塔』

韓国人にとって親はとても大切な存在だけど、特に母親は大切にされていると思う。

 

 

 

梅の木

『お母さんの塔』の周りに梅の木が植えられている。

これは、韓国人として生き3,000人もの孤児を育てた田内千鶴子のことを知った小渕恵三が贈ったもの。

 

行方不明になった夫が帰るまでは!と1人で懸命に孤児たちの世話をし、いつも韓服を着て名前も韓国風に鶴子(ハクチャ)と名乗った田内千鶴子だったが、亡くなる直前「梅干しが食べたい・・」と息子さんに言ったという。

孤児たちのために一生をささげた人生でも最後は、子どもの頃親しんだ味が恋しくなるものなんだろう!

もしかしたら、ずっと梅干しを食べたかったんじゃないだろうか?

 

共生園の歴史を知るための映像を見ていた時にもらった梅のジュースは、この実を使ったものかもしれない。

ちょうど実ができる時期だったので、たくさんの青い実が付いていた!

 

 

日本と韓国は、いろいろな問題を抱えているけど、田内千鶴子のような女性がいたことを同じ日本人として誇りに思う。

ここで育つ子どもたちが将来、両国の架け橋となってくれることを祈りながら共生園を後にした。